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1. 戦国武将 細川幽斎
室町幕府将軍や織田信長・豊臣秀吉・徳川家康の三人の天下人に仕えた細川幽斎。
幽斎は、勇ましい武将であるとともに、和歌、茶の湯、能などあらゆる学芸を身につけた戦国時代随一の武家文化人として知られています。
幽斎は、勇ましい武将であるとともに、和歌、茶の湯、能などあらゆる学芸を身につけた戦国時代随一の武家文化人として知られています。
2. 足利義輝の下で
細川幽斎は、若いころは細川藤孝と名乗っていました。幼いときから将軍家の世継ぎ 足利義藤のそばで育ち、仕えていました。義藤は後に義輝と名乗り、室町幕府十三代将軍となりました。
そのころ、将軍の家来の一人、三好長慶が力を伸ばし、山城・摂津・河内・和泉など畿内やその周辺の国々を治め、将軍をしのぐ力を持つようになっていました。そのため、将軍や藤孝は京の都から追い出されて、近江の山間の村などで生活を送る日が続きました。
このとき、藤孝は、将軍とともに都を逃れてきた公家などから、和歌や古典など様々なことを学ぶことができたそうです。
やがて、義輝は三好長慶と和睦して、都に戻りました。
そのころ、将軍の家来の一人、三好長慶が力を伸ばし、山城・摂津・河内・和泉など畿内やその周辺の国々を治め、将軍をしのぐ力を持つようになっていました。そのため、将軍や藤孝は京の都から追い出されて、近江の山間の村などで生活を送る日が続きました。
このとき、藤孝は、将軍とともに都を逃れてきた公家などから、和歌や古典など様々なことを学ぶことができたそうです。
やがて、義輝は三好長慶と和睦して、都に戻りました。
3. 長尾景虎 将軍に拝謁
文武に優れ「天下を治むべき器量」と言われた義輝は、将軍として強い力を発揮しようと、全国の大名に対し、都にあいさつに来るように書状を送りました。
永禄二年(1559年)四月 、「越後の龍」と言われた長尾景虎(後の上杉謙信)が、将軍の帰洛をお祝いし拝謁するため上洛しました。このとき、藤孝は、拝謁の際の奏者として立ち会い、場の進行や取り次ぐ役目を務めたそうです。
義輝が目指す「将軍による強い政治」が始まろうとしていました。
しかし、そのことをよく思っていない者もいました。
永禄二年(1559年)四月 、「越後の龍」と言われた長尾景虎(後の上杉謙信)が、将軍の帰洛をお祝いし拝謁するため上洛しました。このとき、藤孝は、拝謁の際の奏者として立ち会い、場の進行や取り次ぐ役目を務めたそうです。
義輝が目指す「将軍による強い政治」が始まろうとしていました。
しかし、そのことをよく思っていない者もいました。
4. 義輝討ち死に
やがて、三好長慶が亡くなると、三好長慶の家来であった 三好義継、三好長逸、松永久通らが、将軍義輝を殺してしまうという大事件が起こりました。
屋敷を突然取り囲まれて、塚原卜伝直伝の剣豪将軍と言われた義輝も為す術もなく、命を落としたと伝わります。
屋敷を突然取り囲まれて、塚原卜伝直伝の剣豪将軍と言われた義輝も為す術もなく、命を落としたと伝わります。
5. 一乗院覚慶 救出
細川藤孝は、松永久秀によって奈良の興福寺に幽閉されていた一乗院覚慶(将軍義輝の弟)を救出しました。覚慶は、名を足利義秋(後に義昭)と改めました。
藤孝は、明智光秀などと相談して、勢力を伸ばしていた織田信長の力を借りて、京の都を目指して攻め上ることにしました。
藤孝は、明智光秀などと相談して、勢力を伸ばしていた織田信長の力を借りて、京の都を目指して攻め上ることにしました。
6. 織田信長上洛
永禄十一年(1568年)、足利義昭・織田信長連合軍は、その圧倒的な武力で一気に攻め上り、あっという間に京の都やその周りを支配下に置いていきました。
7. 藤孝 勝龍寺城に入る
力の強い織田信長の支えのおかげで、室町幕府十五代将軍 足利義昭による政治が始まりました。
将軍の側近として活躍してきた藤孝は、足利義昭の命により、勝龍寺城を拠点に西岡の地を治めることになりました。しかし、まだ自分の領地として全てを治めるということでありませんでした。地元の国衆 西岡衆についても、自分の家来としてではなく、与力 つまり協力者として従えるということでした。
将軍の側近として活躍してきた藤孝は、足利義昭の命により、勝龍寺城を拠点に西岡の地を治めることになりました。しかし、まだ自分の領地として全てを治めるということでありませんでした。地元の国衆 西岡衆についても、自分の家来としてではなく、与力 つまり協力者として従えるということでした。
8. 古今伝授
元亀三年(1572年)、藤孝は、三条西実枝から、古今伝授 つまり古今和歌集の読み方や解釈などの秘伝を継ぐ者として指名されました。古今伝授は、公家の三条西家だけに伝えられていた秘伝でしたが、幼かった跡継ぎが大きく育つまで一旦預け置く人物として、和歌に詳しい藤孝が受け継ぐことになったのでした。
藤孝が、歌道の神である住吉大に参拝したとき、奉納した歌が残っています。
敷島の 道の伝への末すぐに 行く末守れ住吉の神
〔訳〕和歌の道の奥義である古今伝受の道を直々にわたくしが受け継ぐのである。将来までこの道を守りたまえ、歌道を守護するという住吉神社の神よ。
藤孝が、歌道の神である住吉大に参拝したとき、奉納した歌が残っています。
敷島の 道の伝への末すぐに 行く末守れ住吉の神
〔訳〕和歌の道の奥義である古今伝受の道を直々にわたくしが受け継ぐのである。将来までこの道を守りたまえ、歌道を守護するという住吉神社の神よ。
9. 勝龍寺城普請
勝龍寺城を、もっと頑丈にするために新たな工事が始まりました。西岡の人々に工事をさせるなど、藤孝は少しずつ西岡の支配を強めていきました。
10. 義昭 都を追われる
都では、義昭と信長が対立するようになっていました。やがて、義昭は全国の大名に対して、信長を倒すよう呼びかけ始めました。
義昭に もはや引き返す気持ちがないことを悟った藤孝は、迷った末に、信長側につきました。このことによって、情勢は信長有利に傾き、戦の末、ついに義昭は都から追放されました。
義昭に もはや引き返す気持ちがないことを悟った藤孝は、迷った末に、信長側につきました。このことによって、情勢は信長有利に傾き、戦の末、ついに義昭は都から追放されました。
11. 西岡一職支配
織田信長は、藤孝に「桂川西岸一帯の支配の一切を任せること」を改めて命じます。つまり、藤孝を「西岡の領主・大名」として認めたのです。早速、藤孝は、「細川藤孝(長岡氏)が 土地を認めてやる」という形を取り、西岡衆に対して「礼を述べて従うこと」を迫りました。
ところが、西岡衆の中で最も力があった物集女宗入(疎入)は、
「物集女の村は先祖代々の土地であり、細川にお礼を言う必要は無い。」
と返答してきました。
藤孝は、宗入を勝龍寺城下の屋敷に呼び出し、家来に殺させました。
ところが、西岡衆の中で最も力があった物集女宗入(疎入)は、
「物集女の村は先祖代々の土地であり、細川にお礼を言う必要は無い。」
と返答してきました。
藤孝は、宗入を勝龍寺城下の屋敷に呼び出し、家来に殺させました。
12. 信長からの書状
天正三年(1575年)十月には 物集女を殺したとの報告を受けた信長から藤孝に返信がありました。
「かねて曲者と言っていた物集女を討ち果たしたのは 結構なことだった。」
こうして、藤孝に逆らう国衆はいなくなりました。
「かねて曲者と言っていた物集女を討ち果たしたのは 結構なことだった。」
こうして、藤孝に逆らう国衆はいなくなりました。
13.忠興・玉の婚礼
天正六年(1578年)、晴れやかな婚礼の儀式が執り行われました。
前年に元服していた藤孝の嫡男忠興が、織田信長の仲介を受けて、明智光秀の娘・玉(後にキリシタンの洗礼を受けガラシャ)と結婚したのです。
これにより、織田家重臣の細川、明智両家が強く結びつくことになりました。
前年に元服していた藤孝の嫡男忠興が、織田信長の仲介を受けて、明智光秀の娘・玉(後にキリシタンの洗礼を受けガラシャ)と結婚したのです。
これにより、織田家重臣の細川、明智両家が強く結びつくことになりました。
14. 細川父子 各地を転戦する
藤孝、忠興親子は、大和信貴山城の戦い、大坂本願寺との戦い、紀州攻めなど、各地で戦いました。そして、明智光秀の指揮の下、丹波、丹後攻略のために力を尽くしました。
15. 宮津へ
天正八年(1580年)八月、藤孝は信長の命により丹後に移り、新たに宮津城を築きました。
古くから歌にも歌われる美しい宮津の風景は、藤孝にとって新しい領主としてますますやる気にさせるものであったでしょう。
雲はらふ 与謝の浦風さえくれて 月ぞ夜わたる天の橋立
〔訳〕雲を払いのける与謝の浦に吹く風は冷たく冴えて、日は暮れ行き、月が夜空を渡って行く天の橋立であることよ。
細川家は、大名としてますます充実していくのでした。
古くから歌にも歌われる美しい宮津の風景は、藤孝にとって新しい領主としてますますやる気にさせるものであったでしょう。
雲はらふ 与謝の浦風さえくれて 月ぞ夜わたる天の橋立
〔訳〕雲を払いのける与謝の浦に吹く風は冷たく冴えて、日は暮れ行き、月が夜空を渡って行く天の橋立であることよ。
細川家は、大名としてますます充実していくのでした。
16本能寺の変
ところが、誰も想像もしなかった大事件が起こります。
天正十年(1582年)六月、京都の本能寺において、織田信長が明智光秀に討たれた「本能寺の変」です。
信長の死を知った藤孝は髻を落として喪に服するとともに、幽斎と名乗り隠居して家督を忠興に譲りました。
明智光秀から協力を求める書状が届きましたが、細川幽斎・忠興親子の決意は変わりませんでした。
天正十年(1582年)六月、京都の本能寺において、織田信長が明智光秀に討たれた「本能寺の変」です。
信長の死を知った藤孝は髻を落として喪に服するとともに、幽斎と名乗り隠居して家督を忠興に譲りました。
明智光秀から協力を求める書状が届きましたが、細川幽斎・忠興親子の決意は変わりませんでした。
17. 山崎の戦い
羽柴秀吉と明智光秀は、天王山の麓で激突しました。天下分け目の「山崎の戦い」です。主な戦いの場となったのは、かつて藤孝の領地であった 山城 西岡でした。
信長の仇討ちに燃え、数で勝る秀吉に対して、光秀は細川幽斎をはじめとする諸大名を味方にできないまま戦い、わずか一日の決戦で敗れました。
信長の仇討ちに燃え、数で勝る秀吉に対して、光秀は細川幽斎をはじめとする諸大名を味方にできないまま戦い、わずか一日の決戦で敗れました。
18. 信長公追善連歌会
本能寺の変から一ヶ月後の七月、幽斎は本能寺の焼け跡に小屋を設け、信長を追善するための連歌会を催しました。費用は、全て幽斎が負担し、公家や武家などたくさんの者が参加したと伝わります。
墨染めの夕べや名残り袖の色 幽斎
玉まつる野の月の秋風 道澄(聖護院門跡)
〔訳〕眼前に広がる夕暮れの墨染め色の空。信長公の喪に服する私たちの喪服の袖の色と同じ墨染め色であるのは、空も信長公のことを名残惜しく思っているからなのだろうよ。
〔訳〕お盆の今夜、亡くなった人の魂を祭る野を月が照らし秋風が吹き、あわれを催す。
墨染めの夕べや名残り袖の色 幽斎
玉まつる野の月の秋風 道澄(聖護院門跡)
〔訳〕眼前に広がる夕暮れの墨染め色の空。信長公の喪に服する私たちの喪服の袖の色と同じ墨染め色であるのは、空も信長公のことを名残惜しく思っているからなのだろうよ。
〔訳〕お盆の今夜、亡くなった人の魂を祭る野を月が照らし秋風が吹き、あわれを催す。
19.一色氏謀殺
丹後は、古くから一色氏が守護として支配していた地域です。幽斎と忠興は、丹後から一色氏の影響を完全に排除しようと考えていました。
天正十年(1582年)九月、一色氏当主であった一色五郎(義有)を招いて宴を催し、その最中に忠興が切りつけて殺し、同行していた家来もことごとく討ち取ったと伝わっています。
天正十年(1582年)九月、一色氏当主であった一色五郎(義有)を招いて宴を催し、その最中に忠興が切りつけて殺し、同行していた家来もことごとく討ち取ったと伝わっています。
20. 羽柴秀吉の下で
山崎の戦いに勝った羽柴秀吉は、その後、約一年間を天王山山頂に築いた山崎城を拠点に過ごしました。
天正十年(1582年)十月、幽斎は秀吉に茶の湯に招かれました。城下町となっていた大山崎に千宗易(後の千利休)が建てた茶室(現在の妙喜庵待庵)です。
秀吉に従う意思を示した幽斎と忠興は、領国である丹後の支配に力を注ぎます。
天正十年(1582年)十月、幽斎は秀吉に茶の湯に招かれました。城下町となっていた大山崎に千宗易(後の千利休)が建てた茶室(現在の妙喜庵待庵)です。
秀吉に従う意思を示した幽斎と忠興は、領国である丹後の支配に力を注ぎます。
21. 天下統一の立役者
その後、幽斎は、天正十三年(1585年)の紀州攻め、天正十五年(1587年)の九州平定などにも参陣し、豊臣秀吉の天下統一に力を尽くしました。
特に、秀吉と島津氏との間を取り持つ取り次ぎ役として、大きな力を発揮しました。幽斎に心服した島津義久は、幽斎の歌道の弟子となりました。
幽斎は、千利休、足利義昭らと共に秀吉の御伽衆となり、秀吉の話し相手を務めるようになりました。
特に、秀吉と島津氏との間を取り持つ取り次ぎ役として、大きな力を発揮しました。幽斎に心服した島津義久は、幽斎の歌道の弟子となりました。
幽斎は、千利休、足利義昭らと共に秀吉の御伽衆となり、秀吉の話し相手を務めるようになりました。
22. 北野大茶会
天正十五年(1587年)十月、秀吉は、京都北野天満宮境内で北野の大茶会を催しました。
秀吉が振舞った豆菓子「真盛豆」について、歌を求められた幽斎は、
「君が代は 千代に八千代に さざれ石の巌となりて 苔のむす豆。」
と詠んだと伝わります。
秀吉が振舞った豆菓子「真盛豆」について、歌を求められた幽斎は、
「君が代は 千代に八千代に さざれ石の巌となりて 苔のむす豆。」
と詠んだと伝わります。
23. 関ケ原の戦い
秀吉の死後、徳川家康と石田三成の対立が激しくなり、慶長五年(1600年)七月、ついに三成ら反徳川勢 西軍が兵を挙げました。
かねてから三成と激しく対立していた細川忠興は、会津の上杉景勝成敗のため徳川方の一員として関東に出陣していました。
西軍は、大坂、京都にいる東軍の諸大名の妻や子を人質にしようと、大名の屋敷を取り囲むとともに、幽斎のいる田辺城などを攻撃しました。
かねてから三成と激しく対立していた細川忠興は、会津の上杉景勝成敗のため徳川方の一員として関東に出陣していました。
西軍は、大坂、京都にいる東軍の諸大名の妻や子を人質にしようと、大名の屋敷を取り囲むとともに、幽斎のいる田辺城などを攻撃しました。
24. ガラシャの死
忠興の妻 玉は、キリシタンとなりガラシャと名乗っていました。
大坂玉造の屋敷が西軍に取り囲まれました。ガラシャは、侍女などを逃がした上、家老の小笠原少斎に介錯をさせ、果てました。
ガラシャが詠んだ辞世として
散りぬべき 時知りてこそ 世の中の 花も花なれ 人も人なれ
〔訳〕散りどきを 心得てこそ、花は花の、人は人の価値があるというもの
という歌が伝えられています。
大坂玉造の屋敷が西軍に取り囲まれました。ガラシャは、侍女などを逃がした上、家老の小笠原少斎に介錯をさせ、果てました。
ガラシャが詠んだ辞世として
散りぬべき 時知りてこそ 世の中の 花も花なれ 人も人なれ
〔訳〕散りどきを 心得てこそ、花は花の、人は人の価値があるというもの
という歌が伝えられています。
25.田辺城包囲戦
一方、幽斎がいる田辺城には、西軍一万五千人もの軍勢が押し寄せていました。細川軍の多くは忠興に従っていたので、田辺城に残るのはわずか五百人ほどでしたが、鉄砲を激しく撃ちかけ、必死に戦っていました。このころ、幽斎から古今伝授を受けている途中となっていた智仁親王は、師である幽斎の身を案じて田辺城に使者を送り、開城を勧めました。
ところが、幽斎は「城を明け渡すことなど武士の本意ではない。」として、討ち死にを覚悟し、使者を通じて古今伝授の関係書物が入った箱と伝授証明状を智仁親王に送りました。それには、歌が添えられていました。
古も今もかはらぬ世の中に 心の種をのこす言の葉
〔訳〕古も今も変わらずめでたい御代にあって、人間の心根をうつしだすのが和歌であるが、この御代に受け継がれてきた和歌の道を私もあとあとまで残しておきたいと思う。
このことを知った後陽成天皇は、「もし幽斎が討ち死にするようなことがあれば、日の本の和歌が廃たれてしまう。」として、幽斎と西軍方の双方に戦いをやめるよう使者を遣わされました。
帝の御言葉となると、西軍も兵を引かざるを得ず、幽斎も開城を承知しました。
ところが、幽斎は「城を明け渡すことなど武士の本意ではない。」として、討ち死にを覚悟し、使者を通じて古今伝授の関係書物が入った箱と伝授証明状を智仁親王に送りました。それには、歌が添えられていました。
古も今もかはらぬ世の中に 心の種をのこす言の葉
〔訳〕古も今も変わらずめでたい御代にあって、人間の心根をうつしだすのが和歌であるが、この御代に受け継がれてきた和歌の道を私もあとあとまで残しておきたいと思う。
このことを知った後陽成天皇は、「もし幽斎が討ち死にするようなことがあれば、日の本の和歌が廃たれてしまう。」として、幽斎と西軍方の双方に戦いをやめるよう使者を遣わされました。
帝の御言葉となると、西軍も兵を引かざるを得ず、幽斎も開城を承知しました。
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